【全起こし】※ネタバレ注意!!『哭声/コクソン』ナ・ホンジン監督来日! 6年かけてすべてを注ぎ込んだ作品 

Q:以前の作品でキム・ユンソクさんが、看板の上から飛び込みをさせられて、それがあんまりちゃんと映っていなかったというようなことをおっしゃっていたんですが、監督は國村さんを“ソンセンニム(先生)”とお呼びになっているくらい尊敬されているようなんですが、目上の方に結構無理なことをお願いするのは大変じゃなかったのかなって思いました。韓国ではやっぱり年上の方には敬意を表されているので、裸にしちゃったりとか、結構いろんなことをされているので(笑)。國村さんも、そういう大変なシーンについてどのように思われているか伺えればと思います。

監督:本当に申し訳なかったと思っております。ただシナリオがそういうふうに出来ていたので、それは自分としてはどうしようもなかったところだと思います。大変な思いをされるシーンが多かったことについては、撮影以外のところで何とかケアをするために最善を尽くしたつもりであります。自分なりに頑張りました。今までも申し訳なかったと思いつつというのはあります。もしこの映画が日本でいい成績が残せなかったら、自分に何て言うかっていうのはちょっと心配なんですけど、是非いい結果を残すことを祈っております。撮影を通してたくさんのことを國村さんから学んで、驚き、感嘆するところが多かったです。また、撮影の過程を通してさらに尊敬し大好きになりました。謝罪と感謝の気持ちをこの場でまた述べさせていただきたいと思います。(日本語で)スミマセン!

國村:何か気恥ずかしいですね(笑)。私も、まさに監督が今言ったように、台本の中でこういうことをしなければいけないということは、あらかじめ分かっていたので、それを分かっていながらオファーを受けるということですから、ただしおっしゃる通り、一番引っ掛かったのは、「あれ? 俺ひょっとしてキャメラの前ですっぽんぽんになってできるのかな?」って(笑)。でもこの作品の世界観はすごいなと。ここでこの男の役を僕以外の人がやってるのは、見たくないなっていうのが正直なところで、それがひょっとしたら観客の皆さんのご迷惑になるようなものをさらしても、それでもやってみようと思ったのは、そういうことがあって。ですから、あんまり監督にひどいことをさせられているということは全くなくって、あくまで自覚的に、この世界に自分から飛び込んだということです。

Q:ひと言、付け加えさせていただいてよろしいでしょうか。韓国で賞も取られまして(國村は『哭声/コクソン』で韓国の2大映画祭青龍賞で、外国人としては初めて助演男優賞を受賞)、TVで拝見していましてすごく嬉しかったです。これからもご活躍をお祈りしております。

國村:ありがとうございます。

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(観客と監督から改めて拍手が贈られた)

MC:ちなみにこれ、個人的に伺いたいんですが、ふんどし姿じゃないですか?

國村:あ、それ言い忘れましたけど、最初はもうすっぽんぽんだったんですよ。

MC:ふんどしという発案は國村さんが?

國村:いえいえ、韓国にも映倫に相当するような組織があるらしく、やっぱり、それはまずかろうということで。で、日本で言うたらなんや言うて、それはやっぱりふんどしかという。劇中オムツって言ってますけど、たぶんオムツと見まがうということもあったのかもしれませんね。

MC:はい、まだ大丈夫そうです。どんどん手が上がりますね。

Q:素晴らしい映画ありがとうございました。監督に質問なんですけれど、この映画は観る側の想像に委ねる部分がたくさんあると思うんですけれども、監督の中で國村さんが演じた役に関しては、監督なりに細かい設定とか考えてあるんでしょうか。あと國村さんに質問ですが、今回演じた役に関して、國村さんなりの人物の背景や解釈をある程度考えて役作りをされたんでしょうか。

監督:この映画を通して(國村が演じた)“よそ者”は、ずっと観客に質問を投げかける立場にあります。これは映画そのものが観客に質問を投げかけるという設定なんですけど、「この状況で“よそ者”をどう思いますか?」とか、またその状況が変わったときに、観客はどう思いますか?ということをずっと投げかけ続ける映画です。なのでこの“よそ者”というキャラクターはとても大事なんですけど、その理由としては、劇中の登場人物たちの“よそ者”に対する考えがどんどん、どんどん変わっていくんですね。そのよそ者に対するイメージがまとまらなかったのが、どんどんまとまっていくんですが、一人ひとりの解釈が全部違うんですね。だから、たったひとつの解釈で定義する映画ではないというのが、この映画の特徴です。なので自分自身もキャラクターをひと言で定義することはできないんですけど、観客の皆さんがどんな解釈をしようが、すべての解釈が合っていると自分は思っています。この映画は観客が自分で整理して完成させる、そういう映画であることを期待しております。

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國村:“その男”をやるに当たって、私が考えたことを申しますと、よく言われる役作りとか、そういうアプローチは機能しない。もっと言えばご覧になってお分かりのように、あれ実在するものではないかもしれない。つまり人でもなければ、何かのエネルギー体なのか、存在として本当にあるのか。あの男を見たという人の噂の中にあの男がいたり、あと、最後、イサムという牧師になろうとしている若者が、自分が見ている目の前の存在を、逆にお前はどう思うと聞かれたときに、「お前は悪魔だ」と、そうすると、スッとそこに悪魔として存在している、存在しているのかどうかわからないですけど。というイメージなんですね。ですから、あの存在自体が本当にあるのかどうかわからないものを、どうつくるというのは全く無理な話で、無理矢理ひとつ何か自分の実感を伴ったイメージにしようとしたときには、この話の中でのあのキャラクターの存在意義というか役割というか、それって何だろうって。そこからアプローチした方がこれはいいかなって。例えばですけど、コクソンという片田舎の小さなコミュニティを池に例えて、そこにポンと放り込まれた異物としての石ころ。その石ころがポンと池に投げ込まれることによって起きる波紋。みたいなことを、つまりはその無理矢理に何やって言うと、その池に投げ込まれる石かもしれない。そんなふうなアプローチをしました。

MC:ありがとうございます。ではお時間の関係で最後のおひとりです。