市民運動の末、決定事項を覆し、新幹線の駅の設置を実現した実話を映画化する『ネクタイを締めた百姓一揆』が、11月6日より公開される。このほど、本作の本予告編と新場面写真がお披露目となり、併せて、キャストの金野佳博、千田秀幸、堀切和重、高橋洋よりコメントが寄せられた。
本作は、1971年(昭和46年)10月に日本国有鉄道(国鉄)が発表した東北新幹線基本工事計画には設置予定として名前のなかった、実在する岩手県の新幹線請願駅(※)「新花巻駅」が、市民運動の末、1985年(昭和60年)3月に開業するまでの奇跡の逆転劇を、労働組合の隆盛から国鉄分割民営化へとつながる時代を背景に描いた群像劇。
※「請願駅」とは、地方自治体・地元住民・新駅周辺企業等の要望により開設された鉄道駅のこと。
▼キャスト コメント
■金野佳博(ジンノスケ役)
このジンノスケ…如何なる人物なのか。手掛かりになるのは、当時の総決起大会での記録映像、そして台本のみ。そこから読み取ったのは、強靭なリーダーシップ、「猪突猛進」をイメージさせる誰にも怯むことなく突き進む勢い、それでいて知略家であったこと。これらが遺憾なく発揮されているシーンとして、「総決起大会」、「国鉄本社での激高」、「パレスホテルでの交渉」そして「知事室での駆け引き」があります。これらのシーンは演じる上でも感情の激しい起伏も表現しながらなので難しかったゆえ思い出深いものとなりました。この映画での唯一のアクションシーン!?である国鉄本社での激高。監督から「本気で行ってください!」との指示か飛びました。大の大人三人の制止を振り切る勢いというのはラグビーのイメージしかありませんでした。制止する場面は演技でもあり、私が実際に激痛に耐える表情でもあり、リアルなシーンです。私がネクタイに掴みかかる国鉄の常務役の伊藤さんは、私よりも高齢でした。しかし、手加減するとやはりわかるらしく、本番では「すみません、本気で行きます!」と耳打ちしたところ、笑顔で応えてくださいました。だからこそ無心で本気を出せました。
■千田秀幸(まるかん役)
今回与えられた役は、花巻の名士であるマルカンデパート創業者・佐々木四郎氏。のらりくらり暮らしている普段の自分とは真逆の存在で、どう演じるかの課題よりも、佐々木四郎氏の圧倒的なパワーに、どう自分の中からパワーを出して魂を近づけていけるか、映画の中で生きていけるか、それだけ考えてやりました。公民館で喜びで抱き合ったシーンは長台詞で長回し。重要なシーンでもあり中々OKが出ず、夜もどんどん更けていき撤収の時間も迫り、場がピリピリと張り詰めた状況でした。そんな状況でしたから、OKが出て撮影が終わったとき、あの映画のシーン同様に、リアルで喜びました。キャスト・スタッフのみならず現場に見学に来ていた近隣の方々まで感激していましたね。
■堀切和重(タダセイコウ役)
私が演じたタダセイコウは市議会議員でありながら、企業経営者主体の市民会議のメンバーに参加した役です。タダはこの活動を足掛かりに自身の更なる高みへと目論んでいたが、上手くいかず、市民会議メンバーからも冷めた目で見られ、もがき苦しみます。それがあるきっかけから市民のために尽力することが、結果として自身のためになることに気づかされ、情熱を取り戻し、政治生命をかけて駅設置活動を行った方と捉えました。そのあたりの喜怒哀楽をしっかりと表現しようと演じさせて頂きました。泣き崩れるシーンの撮影では、みんなから少し離れ、小屋の隅で、ひとり、気持ちを作る時間をいただいたりもしました。
■高橋洋(タケシ役)
この役は原作にも脚本第一稿にも存在せず、私が映画に参加することで監督が脚本に加えた役です。タケシは高校時代大きな目標もなく時代の風潮に流されて生きていましたが、総決起大会での市民会議の方々との出会いにより、人生の目標を見つけそれに向かって真っ直ぐ進んでいきます。14年間の話のなかで物語が進展していくにつれて、この映画はタケシの成長記録でもあるのだと思い、タケシの意思を感じながら演じました。総決起大会のシーンは花巻の中学校の体育館での撮影でしたが、沢山の方々に参加して頂きました。みんなで近隣にチラシを配ったり、企業団体などに協力をお願いして回って、500名近い方に来て頂けたと思います。撮影を進めていく中で、カット毎に監督のOKの合図で会場全体から毎回拍手がなり、皆んなで作っているんだなと感激していたのを今でも鮮明に覚えています。
『ネクタイを締めた百姓一揆』
11月6日(金)より、アップリンク渋谷ほか全国ロードショー
監督・脚本・編集・撮影:河野ジベ太
出演:金野佳博 千田秀幸 堀切和重 藤原俊春 小原良猛 佐藤正明 東海林浩英 小野智明 高橋広朗 穂坂栄一 高橋洋
配給:アルミード
【ストーリー】 東海道新幹線の大成功から、新幹線が日本中で期待の的になっていた1971年(昭和46年)10月、日本国有鉄道(国鉄)は、東北新幹線基本工事計画を発表。停車駅設置が有力視されていた岩手県花巻市の市民は大きく期待していたが、市の誘致運動の結果、発表された設置予定停車駅は一関、北上、盛岡。そこに花巻の名は無かった。その上、線路も街の中心部を大きく外れていた。その時、数名の市民が立ち上がり、「東北新幹線問題対策花巻市民会議」を発足。市民総決起大会を開催し、一市民の会議ながら、国鉄に直談判に行くなど、駅設置運動を始める。一方、日本国有鉄道は赤字を抱えたまま解消できる算段もつかず、労働組合は暴走し、国民からの非難は大きくなるばかりであった。そして勃発した「スト権スト(ストライキ権奪還ストライキ)」。国鉄は大きな方向転換を迫られていた。果たして、数十億かかるという予算の問題などを解決し、駅は出来るのか?