MC:ありがとうございます。それでは、いろいろなお話を伺っていこうと思います。まずは福山さん、世界を代表する映画監督であるジョン・ウー監督からオファーが来たときのお気持ちから伺ってもよろしいですか?
福山:すごく嬉しかったですし、すごく光栄でしたし、まさに夢のようなお話だと思ったと同時に、本当に僕でいいのだろうかと。僕なんかアクションもほぼ未経験と言ってもいいと思うんですけれども、そういう人間がジョン・ウーさんの作品の中に出ていいのかという、その驚きと喜びと共に「いや…これはちょっと…出ちゃだめなんじゃないか」というような、そういう半々な…どっちかというと不安な気持ちが大きかったかな、最初は。
MC:この後ご覧になる方、めちゃめちゃ激しいアクションシーンをすごいやっていますからね!驚くぐらい!
福山:ハードル上げますね(笑)。
(会場爆笑)
MC:びっくりしました!
福山:ただ、(ハードルを)上げてもいいぐらいの、ですよね。「自分で上げたな」と今皆さん思ったかもしれませんけども(笑)、これはもう逃げも隠れもできませんし、はっきり言うしかないんですけども、めちゃくちゃハードです!そして、僕のみならず、池内さんとも戦うんですけれども、工さんとかと戦うんですけども、結構ね…ハードなんですよね。
MC:すごいですよね。
福山:すごいです。
MC:その想像を超えてくる映像になっていると。
福山:そう思います。最初は心配だったんですけれども、やっぱりこういうチャンスといいますか、こういう機会は一生ないなと思ったので、監督からオファーをいただけるなんて。ここはもう飛び込むしかないと思って飛び込みましたね。
MC:そしてジョン・ウー監督、今回は76年に高倉健さん主演でも映画化された小説「君よ憤怒の河を渉れ」の再映画化ですけれども、この映画化になった経緯をまず伺ってもよろしいでしょうか?そして、ダブル主演の矢村役に福山さんをオファーした決め手もぜひ伺えたらと思います。
ジョン・ウー:まず、最初のご質問にお答えいたします。実は、私は子どもの頃から日本映画が大好きで、この仕事を始めてからも多くの日本映画から影響を受け、素晴らしい秀作も多く観てきました。自分の代表作である『男たちの挽歌』も日本映画の影響を受けていましたので、長年の夢として、日本でぜひ映画を撮りたいと思っていました。特に、私が敬愛する高倉健さんが他界してからは、ぜひ高倉さんの作品をもう一度撮る機会があったらと思っていましたので、今回は脚本にも恵まれまして、高倉さんと日本映画に対する敬意、そしてオマージュとしてこの作品を撮りました。
福山さんは、私が前から非常に注目しているアーティストの方です。芸術活動を通じて、世界に向けて愛や平和などポジティブなメッセージを込めて発信しています。それでいて、とても人情のある方で正義感に満ちている、まさしく私が考えていた矢村像にぴったりだと思いました。ですから、最初はオファーをしましたがドキドキしていました。OKしてくれるか心配していましたので、快諾してくれてよかったです。ラッキーでした。
また、私の古い友人である國村さんや倉田さんをはじめとする日本の素晴らしい皆さんと素晴らしいチームを結成できたことは本当に感謝しております。このように、皆さんは私の長年の夢を叶えてくださいました。
MC:ありがとうございます。福山さん、ジョン・ウー監督もドキドキしていて、オファーを受けた福山さんもドキドキしていたと。
福山:それを聞いてまたドキドキしています(笑)。
MC:実際は、現場は日本の映画の現場とどう違いますか?
福山:どうなんですかね…。もちろん日本にもスケール感が大きい作品があると思いますし、ただ僕がそれを知らないだけかもしれないですけど。参加人数や、山を切り開いて牧場を作り、道を作り…というオープンセットを作ったというのは僕は初めてだったので、それはやっぱり大掛かりでしたね。そのスケール感を感じました。
MC:今、ジョン・ウー監督のお話がありましたが、倉田さんは久々のジョン・ウー監督との現場だったというお話がありました。まず國村さん、久々のジョン・ウー監督の現場はいかがでしたか?
國村:それこそ25年、ちょうどウーさんの香港での最後の作品になったときにご一緒させていただいて、そのときの現場と今回も何にも変わっていない、時間の長い経過を全く感じさせず、パワフルで、でも物静かで、淡々と現場が進んでいくんです。さっきからもお話が出ていますけれども、やっぱりアクションコーディネートが、ジョン・ウーフィルムといえばもうこれというくらいの、独特のオリジナリティ溢れる素晴らしいアクションコーディネートです。これからご覧になるのであまり言えませんけど、日本でもこんなアクションが撮れるんだというアクションが撮れています。それに、福山さんがすごいです。これはやっぱりジョン・ウーさんという稀有な監督の才能なんでしょうね。
MC:倉田さんも久々ですというお話がさっきありました。
倉田:はい。私は1970年が香港映画第1本目なんですね。そのときの監督が大監督で、チャン・チェ(張徹)という監督で、そこにジョン・ウーさんが助監督でいたんですよ。それで片言の日本語で教えてもらったり、汚い食堂で一緒に食事をして。この人って本当に穏やかで。当時は、チャン・チェ監督にアドバイスをしたりする人って誰もいないんですよ。それでジョン・ウーさんが「監督、このカットは撮り足したほうがいいよ」っていうぐらいの、たしかまだ若干21、2でしたね。そのぐらいすごい助監督でしたね。
MC:そして、今回また一緒にお仕事をされて。
倉田:僕らはジョン・ウーさんに「OK」という言葉をもらうために、もう目一杯ただやるしかないかなっていう、100%どころか150%ぐらい出さないとだめかなって、余裕がなくてもそれだけを考えながらやりましたね。