【全起こし】『沈黙-サイレンス-』記者会見にマーティン・スコセッシ監督、窪塚洋介、浅野忠信が登壇!

Q:監督にお伺いしたいのですが、おふたりのキャステイング理由と、それぞれのキャラクターにどうようなオーダーをしたのですか?

スコセッシ:おふたりにお会いしたのが2009年でちょっと前になるのですが、この舞台となる長崎のロケハンといいますか、ゆくゆくは街を複製しなければならないということで、ロケハンをしに訪れていた時にふたりに会いました。

オーディションの時にキャストのほとんどは決めたのですが、キチジロー役と通詞役はまだ決まっていませんでした。そこで製作延期となってしまいました。そのあと、また企画が走り出して、止まったり走り出したりを繰り返していったわけですけど、その間に窪塚さんがキチジローを演じているビデオを拝見しました。

キチジロー役というのは特別な役でして、小説の中でも非常に特徴があるんですね。そのキチジローの描写に新鮮な解釈を与えたいということで、いろいろ考えていたところ、キャスティング・ディレクターのエレン・ルイスに「この人のビデオ見てください」と言われました。それでビデオを拝見したわけですが、窪塚さんは非常に力強く演じているだけでなく、心から正直に演じており、役を心底理解している感じがしました。まるで目の前でキチジロー役がどんどん創られていくような光景を見ていたような感じでした。

その後、2014年に東京へ戻ってまいりまして、その時実際に初めて窪塚さんにお会いしたわけですが、もうその頃には本当に役になりきっていてホテルでキチジロー役の芝居をしてくれました。その時エレンに、この人に決めようと言いました。

実は浅野さんもこのキチジロー役のオーディションを受けていたわけですが、彼の過去のいろいろな作品がありますが、『モンゴル』だとか『アカルイミライ』だとか『殺し屋1』だとか、「エレンどうだい、この人を通訳役にしたらどうなのか」と提案しました。それでお願いしたら、もうパーフェクトでした。

ということで大変な撮影がふたりを待ち構えていたわけですが、そういう環境の中でもきちんと役を演じきってくれるこのふたりならという確信がありました。

もちろん私は日本語がしゃべれないわけですが、浅野さんもおっしゃっていたように、言葉にしてなくても何か通じ合う目くばせとか仕草とかでなんとなく通じ合うものを感じました。その他にも日本人キャストでイッセー尾形さん、塚本晋也さんもともに2009年にお会いしました。私は塚本晋也さんの映画の大ファンでして、このような素晴らしい面々を集めることができたわけですが、非常に彼らを頼り切っていました。

映画の話に戻りますが、私の映画のバックグラウンドというか礎となったのが、もちろん言語の問題もありますからアメリカ映画、イギリス映画なわけですが、それ以外にはイタリアのネオリアリズムの映画だったりするわけですが、初めて異文化というか、違う世界に触れたのが日本映画、そしてそれが『雨月物語』だったわけです。

1958年以来ずっと多数の日本映画を観て、親しんできているわけですので、日本のドラマに出てくるさまざまな顔も僕にとっては馴染みの顔になっていきました。例えば今回出演していただいているイッセー尾形さんが主演した(アレクサンドル・)ソクーロフの『太陽』という作品を拝見しましたし、塚本晋也さんは映画監督ですけど俳優としても尊敬しております。窪塚さんだけはほかの作品を拝見していなかったのですが、オーディションが余りにも素晴らしかったので即決したわけですが。そうやって私の家族のような人たちを集めたわけですね。例えば黒澤明監督の『生きる』に出ていた志村喬さんとかはずっと昔から観ているわけですから、私にとっては馴染みの顔なわけです。ちょっとしゃべりすぎたかな(笑)。

MC:ありがとうございます(笑)。すごい深い話をありがとうございます。続きまして質問のある方。

Q:窪塚さんと浅野さんにお伺いしたいのですが、マーティン・スコセッシ監督の演出というのは、これまで経験した監督とどんな違いがあったのか。その演出によってどのように役にアプローチできたのかを具体的に教えていただけないでしょうか。

窪塚:なにぶん、ハリウッド作品に初めて呼んでいただいたもので、ほかと比べるものがないので、どう言ったものかなとは思いますけど、僕が一番覚えているのがクランクインした日に、(監督が)すごくきれいなスーツを着てらして、汚い酒場の階段の下の薄汚れたところで撮影だったんですけど、その時にそのスーツのまんま(地べたに座って)「こんな感じで」ってされているのを見て、「あ、スーツが汚れちゃう!」って俺は思ったんですけど、関係ないんだなあと思って。もちろん同じスーツをたくさん持っていてとか、そういう話じゃないんですけど。その時に、何か情熱の氷山の一角というか、こんなに情熱を持って今もやられているなんて言ったら失礼ですけど、メラメラな人なんだなと思いました。

スコセッシ:ありがとうございます。

浅野:僕は、監督と一緒にオーディションをしていて、緊張していたんですけど、2回、3回とやるうちに本当に撮影をしているかのように楽しい気分になれたんですね。だから俳優の中にある何かを常に期待してくれているというのを現場で感じましたし、あとこの作品を我々はフィルムで撮ったわけですけれども、それがとっても僕にとっては嬉しかったですし、監督にとっても重要なことだったんだなあと思いました。フィルムの中で僕も若い頃からたくさん演技をさせてもらって、その中でしか見えない何かっていうのが常にたくさんの監督たちから教えられてきて、今回も監督とフィルムでこの役を演じさせてもらったっていうのが大きなひとつの演出にもなっていたのかなと思いますね。

Q:監督は今もキリスト教を信じていますか?

スコセッシ:(会場が逆光で)ここからだとお顔が拝見できないので、まるで天国からの声に聞こえますが(笑)。今回、映画を撮影していく中でも、さまざまなロケ地を巡ったわけですけど、山の中にもいたわけですが、これが一種のキリスト教への巡礼のような体験になりました。それでもやはり信じるということは、今でも劇中のロドリゴやフェレイラのように試練と感じる時もありますし、やっぱり自ら享受できるものではないと思っています。やっぱり自らが欲して勝ち取らなければならないものだと思っています。

人は日々考えたり、書いたり、映画を作ったりして人間とはなんなのか、人間とは良いものなのか、悪しき存在なのか、そういうことを考えたりしていくわけですが、その過程が信ずるとは何なのかというものを探る過程なんだと思います。特にこのストーリーが私の心をつかんでやまないのは、異文化の衝突を描いているからです。信ずるという信仰を心底分かるためにはありとあらゆる衝撃を通過しなければならないのです。そしてこの物語において、やはり異文化の中にキリスト教を持ち込むわけですから、少しずつ削っていかなければならないわけです。そして削っていく中で、その神髄に至るというか、そういう過程だと思っています。

といっても、かいつまんで言うとそういうことで、本当はもっと複雑な物語です。その物語に出てくるキチジローですが、これは我々皆を代表しているキャラクターだと思いますし、浅野さんが演じられる通詞役は非常にロジックの塊なんですね。例えば踏み絵を踏む時には儀式に過ぎないんだからっていうあたりとか、彼には彼なりの心情があるっていうのが良く分かる役だと思います。