【全起こし】『沈黙』スコセッシ監督来日会見「モキチのはりつけシーンは全キャストが泣いた」

質問者:日本の隠れキリシタンについて、どういったことからどのように学んだのか。また、日本の宗教的マイノリティーに対して思うところはありますか?

スコセッシ:まずはこの日本にいたキリシタンたちの勇気、信念に感心せざるを得ません。先日ローマの方でとあるアジア人のイエズス会の神父がおっしゃていたことなんですけどれども、隠れキリシタンになされた拷問というのは暴力だったんですけど、同じように西洋からやってきた宣教師は暴力を持ち込んだと。「これが普遍的な唯一の真実である」ということで、キリスト教を持ち込んできたわけですけれども、それこそが暴力なのではないかと。この暴力にどう対処するのか。それは彼らの傲慢をひとつずつ崩していく方法しかないんですね。だからキリシタンたちを弾圧するのはなくて、リーダーたちにプレッシャーを与え、上から崩していく方法を見いだしたのではないか、というお話をいただきました。

この映画の中でも描かれるのですが、ロドリゴも同じように傲慢が崩されていくわけですね。彼が踏み絵を踏むことによって、彼の中にあった誤ったキリスト教に対する考え方が覆され、彼はそこで自分を空っぽにしました。そして「僕は仕える人になるんだ」と自分を変えていきました。そうやってロドリゴは真なるキリシタンになっていったんですね。日本のキリシタンの皆さんは、そういうところに惹かれるんだと思います。つまり、慈悲心であるとか、人間はみな価値が同じであるという理念だとかだと思うんです。遠藤周作さんが「イエスの生涯」でも書いているんですけども、日本人が怖がるのは4つあると。「地震雷火事親父」です。要するに権威的なアプローチでキリストの教えを説くというのは、日本においては違うんじゃないかと。どちらかというと、キリスト教の中の女性性をもって説くのが日本で受け入れてもらうやり方なんじゃないかと。だから今の隠れキリシタンの方たちは、そういうところに惹かれて受け継いでいるんじゃないかと、僕は思います。

質問者:原作を読んで映画化まで28年ということですが、その間に映画化の情熱が高くなったり低くなったりしましたか?もし、もっと若い頃に映画化をされていたら、今と違う作品になっていましたか?

スコセッシ:若い頃に撮っていたら、全然違う作品になっていたんじゃないかと思います。ようやく脚本として構成して、挑戦しても良いと思ったのが『ギャング・オブ・ニューヨーク』を撮り終えた2003年頃なんですね。映画化権は持っていたんですが、その権利を失いたくなくて、(脚本が)書けていなかったんだけども、権利元には「できてるから、できてるから」と言って(笑)、待たせた訳ですけども。その結果いろいろな裁判沙汰になってしまったり、イタリアの権利者から訴訟を起こされたり、さまざまな問題があって。それでも企画はずっと続いていきました。そして2003年頃、私生活に変化がありました。再婚しまして、女の子が生まれたんです。ある程度、成熟した段階で父になりましたから、若い頃に父親をやるのとちょっと違うんですね。そういった自分の私生活での変化も、いろんな可能性を押し広げるきっかけにもなりました。

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