【全起こし】ジェームズ・キャメロンがいま明かす『タイタニック』製作秘話:「映画がコケて、もう二度と仕事ができないと確信した」

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The Hollywood Reporter

映画史において当時では最大のヒットを記録した1997年の『タイタニック』から20年、監督のジェームズ・キャメロンは、初めてこの名作の裏に隠されたドラマを、The Hollywood Reporterの記者に宛てた手紙で明かしている。その全文を以下に公開する。

「当時FOXの社長だったピーター・チャーニンは、ラブ・コメディを製作するのにかかる費用1億ドル(それくらいの金額だと思われていた)を共に負担してくれるパートナーを探していた。私はピーターに、パートナーを見つけるのはあなたの問題であって、私は映画を作らなければいけないんだ、と言った。だから、私はただ必死に製作を進めるだけだし、FOXはパートナーを探すのに苦労しつつも映画に出資し続けるんだ。

1996年の7月の終わり、主要部分の撮影が始まる2週間ほど前、もうメキシコのバハのスタジオではセットの建設もかなり進んでいて、大型船のセットもすでに完成していた頃に、ユニバーサルのケイシー・シルバーがあんなに時間を費やした後にパスしたんだ。だけどパラマウントが興味を示した。シェリー・ランシングが脚本を読み、いいと思ったんだ。数日後には、カナダのノヴァ・スコシア州ハリファックスで現代のシーンを撮影しなければならなかったので、私はスタジオと政治的交渉をする時間はなかった。

私はシェリーに電話して、彼女が脚本のパワーにとても前向きな意見を持っていると知った。

どれほどシェリーがこのビジネスに対して影響力を持っているかは知らなかったよ。彼女はいつも私とパラマウントの間をクリエイティブな面で取り持ってくれていたし、この映画でもとても協力的でいてくれたよ。

シェリーはその都度ラッシュを見て、すごく褒めてくれたよ。彼女は後になって、脚本に表われていた流れや感情がラッシュにもよく描かれていて、とても興奮したと言ってくれたよ。私はそれまでSFやホラー、アクションしか作ったことがなかったから、そう言ってもらえてとても安心したよ。だけど同時に、予算はうなぎのぼりにかさんでいき、パーティがだんだん質素になっていったことを褒められたのを覚えているよ。彼らは、質のためにスケジュールを犠牲にすることを許さなかったんだ。

シェリーはいつもこの映画を愛してくれていたが、(だんだん公開日が見えてくると)パラマウントの営業のトップたちがまるで作品に末期がんの診断を下したかのように振る舞った。いかめしい顔つきで、トリアージをするかのように映画の公開を考え出した。みんな、お金を失うと思い、多額の損失が致命的にならないようにするためだけに努力がなされた。私も含め、事態を好転させようとした人はいなかった。誰もこれから起こることを想像できなかったからだ。

1997年の春、夏の公開に間に合うように特殊効果を完成させようとしている時、7月の公開は無理だろうという思いがどんどん強くなっていた。そして夏の公開に間に合わせるためには大幅なカットと妥協が必要だろうと思った。私たちはミネアポリスでの試写でかなりいい結果を残していたので、期待を超える可能性を感じていた。しかし、実際に映画の視覚効果を必要なレベルのクオリティにまで上げて映画を仕上げることはほぼ不可能だった。この映画は長すぎて、視覚効果も前代未聞のものだった。7月公開は無理で8月になるかもしれない、そうなるとゴミ捨て場に捨てられるようなものだ。もうすでにその時点で、編集、視覚効果、音楽で大きな妥協をしていた。映画を短くする作業は長くかかった。編集室で、1日に数秒ずつ短くされていった。ダイヤモンドをカットするようなものだった。ぶった切って映画をダメにしたくはなかったが、とにかく短くする必要があった。

私たちはメディアに、特に業界紙に、コスト超過や公開日の遅れなどすべてについて容赦なく叩かれた。私たちはハリウッド史上最もバカで、メディアは夏の公開が近づくにつれ攻撃を強めた。そして映画の公開の時、そうした揶揄は最高潮に達した。

私は否定的なメディアに対処する最善策は、一歩退くことだと考えていた。強まるあざけりから身を引き、好きにさせればいい。彼らは否定的な物語を言い続けるしかないんだから。どんなに長くても12月までだろうし、その頃には彼らは何か新しいことに気づいているだろう。例えば、この映画は実際にはよかったとか、すべてのドラマに価値があったとか。

例えば合気道だ。敵の勢いを使い、敵を倒す。メディアはとても攻撃的なので、彼らを倒すためには一歩引いて、自分たちの惰性で彼らを自滅させるしかない。

メディアと市場に関しての戦略は完璧に機能した。今までこんなことが試されたことはなかったので、私以上に驚いた人はいなかっただろう。しかし、これは戦いの最中に明らかになった戦略だった。必要は発明の母だ。そして絶望的なの時こそ窮余の策が求められる。

私はシェリーのために、私のマリブの自宅にある現在8歳の娘が寝室にしている部屋で、映像編集機器アビッドを使って映画を上映した。彼女は私の右側に座り、映画を上映している間、私は彼女に話しかけていた。なぜなら当時のアビッドは20分も続けて上映できなかったからだ。まだラフの段階で、特殊効果もあまりなく、ストーリーボードの状態のものもあった。音楽はほとんど一時的なもので(エンヤがたくさんあった)、ジェームズ・ホーナーの名曲もいくつかはあったけど、まだシンセサイザーの音だけだった。

彼女はとても感情的なリアクションを示した。素晴らしいラブストーリーだと思うし、『風と共に去りぬ』みたいだし、粗い画質だけど終始感動したと彼女は言った。

彼女のコメントはすべて前向きで洞察に満ちていた。私も含め、みんながもう少し短くする必要があると感じていたが、彼女が長さについてそんなに心配していた記憶はない。しかし、彼女にとって重要だったことは、ジャックとローズの間の化学反応がうまく機能し、ラストでドラマがうまくいくことだった。彼女は少し謎めいたエンディングが好きだった気がする。年を取ったローズはまだ生きていてジャックを思っているのか、または彼女はもう亡くなっていて天国でタイタニックとジャックに再会しているのか、そんなことを話し合っていた。

私のこの頃の記憶では、彼女はこの映画を愛してくれていて、私たちは映画を仕上げなければならないという精神的に追い込まれた状態だったので、彼女の反応は私にとって大きなターニングポイントだった。みんなは私たちに反対で、私たちはこの先のキャリアでも(キャリアがあるとするならば)この予定よりもほぼ2倍にふくれ上がった予算という重荷を背負っていかなければいけないとわかっていた。すると突然、スタジオの社長が、どういうわけかある程度までだけど、この映画は価値に値すると言い出した。誰も決して興行がトントンで終わるなんて思っていなかった。その当時は、私はもう二度と仕事ができないと確信していたぐらいだ。

宣伝キャンペーンでのバトルは続いていた。1997年3月(公開の9ヶ月前)にShoWest(映画の展示会)のために4分ほどの映像を作った。予算や公開日の遅れなどすべてのネガティブな話に続いての、世界で初めてのお目見えだ。そこには言葉より音楽で悲劇のラブストーリーが語られていた。とてもクラシックで芸術的だった。製作中にメディアが言った否定的なことにもかかわらず、Showestの映像はみんなを感動させた。10秒の間、静けさが訪れ、この映画は悪くないかもしれないというつぶやきが聞こえ始めた。だが、メディアはまた否定的になり、この瞬間は忘れられたが。

そして1997年の11月、3時間15分のラブストーリーを30秒のCMにしようとしていた。すべてのCMではアクションと危機が強調された。私たちはグロテスクで安価な映画、せいぜい近年の『ポセイドン・アドベンチャー』のような作品を作っている気がした。私たちは精力的にロビー活動をして、もっと感動的なCMを作ろうとした。ラブストーリーを前面に出したCMにして、女性客をターゲットにする(昼間の番組や人気トーク番組”オプラ・ウィンフリー・ショー”で放送して)ことにした。

最終的にはアクションとスペクタクルとロマンスが混ざった宣伝になったことを覚えているよ。ただ一般の観客にとっては、これは災害映画でラブコメではない。それはたぶん公開まで続くだろうと思った。

私は映画を完成させることに集中していたので、何事に対してもあまり戦わなかった。みんながある一つのこと、それは船の後部が垂直になり、何百という人が渦巻く海に落ちていく中、ローズとジャックがお互いにしがみついているというロングショットが、この映画のポイントになると思っていた。このショットだけでも、公開週の観客の心を虜にできるだろうと思った。

国外でも2回の試写会を行なった。ひとつ目は東京で、東京国際映画祭のオープニングだった。これは否定的で偏見に満ちたアメリカのメディアを完全に回避するためだった。完成した映画に対する最初のレビューは東京からのもので、それは完全に肯定的なものだった。

そして2つ目は、ロンドンでチャールズ王子のために(女王はパスした)試写会を行なった。そこでも肯定的な言葉が、アメリカまで伝わることとなった。

それによって、アメリカのメディアは偏見を捨て、映画の長所を見て判断するようになった。この戦略はパラマウントの意に反して行なわれ、完全にFOXからのサポート、特にトム・シェラックとジム・ギアノーパロス(当時の国際配給部門の責任者)によるものだった。ジムは実際に東京にも行き、試写会を行なったオーチャードホールに新しいサウンドシステムとプロジェクターを設置することを許可した。

この厳しい期間を通して、シェリーは我慢強く映画をサポートしてくれ、パラマウントの配給部門やマーケティングチームにもサポートしてくれた人がたくさんいた。そしてついに私たちはみんなが満足するCM、予告編、広告を完成させ、『007/トゥモロー・ネバー・ダイ』というボンド映画を数パーセント差で破り、この映画を公開週の1位でスタートさせた。

私たちが必要としていたのはマーケットでのしっかりとした足がかりだった。これは『タイタニック』が築き上げたプラットフォームであり、公開後何週にもわたって、16週間も続けて、4月の半ばまで、1位であり続けるために必要だったものだ。それによって前人未踏の記録を打ち立てたのだ」